さくらだより第7集

プロローグ
 平成十一年初春、梅も満開。年中行事である「さくらだより」の作成にあたり、過ぎた一年を振り返る。あまりに多くの 出来事が去来し、それをまとめることに苦慮している。
 脳死移植法が制定されて以来初めての、脳死者からの移植の経過
報道にも眼が離せない。一方、『地域振興券』という、政府の景気対策の行方にも興味がある。ダイオキシンの問題も、

 テレビ朝日のニュースで、ショッキングにクローズアップされた。
そして何といっても、夏祭りのカレーライスに「ヒ素」を混入するといった無差別殺人に始まり、それに続く一連の連鎖反応とも思われる、ポットへの毒物混入・缶入り飲料を飲んでの薬物中毒。スーパーに陳列されている食品へ針を混入するといった事件。これほど次々と事件がおこると、その種の報道に免疫が出来ていることに気付く。
「バイアグラ」の大ブレークも、もう真近。



癌告知
 その日、四月二十九日・みどりの日。私は薬局のパソコンの修理をしていた。
Aは灯油を買って左折したとき、後ろから近づいてくる車に追突される。生まれて初めての交通事故。まさかこの事故が、癌との戦いの始まりだったとは…。

 休日当番の医院が通院するのに遠いという理由で転院。そこでの検査の結果、すい臓癌の末期・しかも背骨への骨転移。科学的には交通事故と癌とは全く関連がないということがわかっていても、交通事故に遭遇しなければ、癌は顔を見せなかったのではないか?と思うのは人情である。

次にやってくるであろう「痛み」への覚悟。どうするか…。癌性疼痛への鎮痛剤の使い方を書物で読む。しかし、もっとも苦痛であったことは、痛みではなく、食べられないこと。食物を受け付けないことが、体力の消耗に拍車をかける。これほど物質に恵まれていても口にあうものが無い。
ひどい嘔吐に悩まされ、食べ物を受付けなくなり、そして、起きあがることも出来ないほどやせ細った、九月祝日の昼下がりの病室。
 お見舞いの方の訪問もなく、看護婦さんの出入りも少ない、静けさの中で、うとうとと居眠りをするAに付き添う。居眠りから覚めた時、
「どんな夢をみていたの?」と問う。
「兵隊で外地に行っていた頃の夢」との返答。
 元気な頃は、戦争の話など聞いたことがなかったのに。
 それから二週間程して、静かに旅立った。癌であったことを知ったのかどうかは、わからない。予想していたようなひどい痛みは、訪れなかった。振り返ってみれば、当初予想したより穏やかな戦いであった。旅立ちと同時に、告知への重圧から開放されたことは、事実である。
 みどりの日に修理を始めた薬局のパソコンは、彼の旅立ちと時を同じくして、新しいパソコンにその役割を譲ることになった。


おじいちゃんに 見てもらいたかった 秋の運動会









自然賛歌
 夏祭りのカレーライスにヒ素が混入していたことがわかり、インターネットの検索エンジンに「ヒ素」と入力してみる。
 そこに現われたのは、予想もしなかった「森永ヒ素ミルク事件」。もう四十年以上も前の事件である。もちろん当時はインターネットという情報手段などなかったはずだ。とすると、いまでもその後遺症に悩まされているということか…。  母乳に代わるものとして脚光を浴び、おそらく母親達への救世主としての役割を持った粉ミルク。これにヒ素が混入していたことが分かり、それをわが子に飲ませたことへの、やり場のない失望。その果てに、母乳賛歌が生まれる。
 そして現在、母乳中からダイオキシンが検出されるという現実の前に、また悩む母親の姿を見る。
 わが薬局には、粉ミルクは置かない。「手近にあるから使おうとするのです。もし無ければ、母乳を出そうと努力するでしょう…」という、故 山之内逸朗先生のお言葉が、脳裏を去来する。



自立
 
 ゴルフの約束の朝、体調がよくないことを理由に、友人に断りを入れて、病院に向かったという。病院での診断は、脳梗塞。すぐさま高圧酸素療法が開始されたらしい。
 ご本人から私に連絡が入ったのは、その治療も一段落した頃。お元気で活躍されていた頃と見た目はあまり変わらない。右手と右足に少しの麻痺があったので、しきりにご自身のサインの練習をしておられ、その成果を見せてくださった。お世辞ではなく
「充分にサインとしてわかりますよ。」とお話すると、
「これくらいならいいだろう。」と言われながらも、
「どうしても右に右によってしまうんだよなあ…」と少し不満そうであった。
 また退院の日が近づいた日に伺うと、ご自宅の設計図を広げて、
「ここを改造して、ここから出入りしようと思うんだ。ここは病院の扉と同じ扉を注文したんだ。これは、少しの力で開けられるし、開いたところで止まってくれるんだ。ちょっと費用がかかるけれどね。」と言って、ベットを降りてその扉の前に行き、実演をして見せてくださった。
「すごいですね。病気のことを正面から捉えて、ご自身で立ち向かっていかれるのですね。」と、感想を申し上げると、 「自分のことだからね。もうすこし仕事をさせてもらわないとね。」と答えられた。
 秋の昼下がり、その方が薬局にお見えになった。その時用事で出かけていたので、二十分くらいお待ち頂くことになった。お元気なときから、待つことは苦手な方だった。
「元気でやっているかい?今病院からの帰りなんだ。」
「よろしかったですね。お元気になられて。何かお手伝いできることがありますか?」
「またお願いするよ。」
 ほんの二言三言の会話であった。しかしお元気になられたお姿を拝見できたことは、とても嬉しいことであった。
 その翌日、お風呂で倒れたまま、旅立たれたという。その事実を知ったのは、平成十年の暮れも押し迫った頃。そのときの様子を奥様に伺う。
「まるで、さようならを言いに行ったようだったです。」
とのお言葉に、自分自身で生きざまを選択した人の、清々しさを感じた。
 
バリアフリー
 平成十年十月、インターネット上で知り合いになりました長岡さんと清水さんに、岡山県倉敷市水島で行われた障害者フォーラムの直前、会場でお目にかかりました。
 長岡さんは、大阪からご両親・看護婦さん・リフトのついたワゴン車を運転される方の総勢六名で、また清水さんは岡山県北の施設から、筋ジスの同僚と、施設の職員の方が運転する車で来られました。丁度昼食時だったのですが、自分の手で食事ができるのは、介助の人以外は、私だけ…。何を注文したらいいのだろうか?どんな風に食事をすればいいのだろう、出来るだけ普通に…いろいろな思いが交錯しました。そして、「バリア」というものを、実感しました。
 清水さんと一緒にお見えの筋ジスの人から、(ずっと同じ姿勢をしているので)「背中をひっぱって。」といわれて、「こんな風でいいのかしら?」とこわごわと背中を伸ばしてあげたあたりから、こだわっている自分をおかしなことだと気付きました。
 そして、お三人に「バリアフリー」について、ご意見を書いてくださいと、お願いしました。お一人には振られてしまったのですが…



清水 直樹さんの意見
「バリアフリー」と言う言葉がよく聞かれる。耳に心地よい響きを持っている。町中に存在する「バリア」は、ない方がいいに決まっている。

「バリアフリー」への取り組みは、様々な形で実現されているのだろうと思うが、ことハード面の整備を考えてみても、何が本当にバリアになっているのかが、理解されていない事例に遭遇する。階段の上に作られた身障者トイレ、急すぎるスロープ。入り口にスロープがある店に入ると、店内には段が設けてある、というところもあった。
 多くの人にとって、気にもならないちょっとした事が、誰かにとってはどうにもならない障壁(バリア)になっていることに気がつこう。
 思えば、顔も違えば生き方も違う人間同士、共に生きようとするなら思いやりが必要だろう。これは「ハード」に限った話ではない。それどころか、「ソフト」こそが肝心なのだと思う。
 バリアはなぜ生じるのか。 本当のバリアがどこにあるのかに気づく事。「バリアフリー」とは、そこから始まるものだと思う。



清水さんのこと (ホームページから)
 第五頚椎(C-5)圧迫骨折"ティアドロップ"の後遺症。つまり、頚椎損傷である。これにより、一級の重度身体障害者のライセンス‥‥もとい、手帳を持つ身となった。 胸から下は完全にマヒ。両腕は肩まで持ち上げられ、肘は曲げられるが、伸ばせず、脇はしめられない。手首は利かない。指は論外。

(清水さんのホームページはこちらです!)


長岡 功治さんの意見
 
 一九九九年一月ニ八日鹿児島大医学部倫理委員会はデュシャンヌ型筋ジストロフィーに対する着床前診断(受精卵遺伝子診断)の実施を承認。
 体外受精による受精卵の遺伝子を検査し、重い病気の遺伝子と判定されれば妊娠させないというのが目的です。
「健康な身体で生まれて欲しい」人が新しい生命を生みだそうとする時そう思うのは当然の事です。
 確かにこの病気は、両親や周囲の人に様々な負担を掛けることになります。
 しかし五体満足なことが幸せかと言えば、決してそうは思いません。
 賛成する人からは、分かっていて産むことはないという意見を耳にします。しかし、私をはじめとする多くの患者はその様な判定が出来ることを全く望んではいないのです。
 技術者には障害者に対する観念に少なからず憶測があること、心の溝があることを感じます。確かに私も病気の撲滅を望んでいますので、研究努力がなされていることは認めます。
 ただし望むのは治療であって、生まれる人間を選ぶことではないのです。
 そのようなことが一般的に行われるようになると、障害者、老齢者の存在が否定的に見られ、生産性の高い人間のみ価値があるという意識を根付かせる危険性があります。
 生命を扱う問題に対する慎重さが欠如しているのではないでしょうか?
 人間によって生命を操るということが本当に行われてもいいのでしょうか? 
 私は、いかなる困難があろうともありのままに生命を与えるべきであり、不自由でも、例え幸せを感じられない時も、人は生きてゆかなくてはいけないと思うのです。そして私は出会った人々のお陰で、時には道に迷う事もあったけれど、この身体で生きてきたことで多くの大切なことを得ることが出来ました。
 私はこの世に生み出してくれた両親に改めて感謝します。
(長岡さんのホームページはこちらです!)


  
 さくら薬局を開局する時、医療に関する本を集めた図書館を作れないかな?と考えた。
『そんな馬鹿なこと』と、友人からは一笑に伏された。
 あれからもう七年が立つ。 インターネットの利用により、治療法や専門病院の検索だけでなく、患者さんの側の意見も見ることが出来る。
 その範囲は、言葉の壁さえ解決すれば世界中である。
 まだまだ、その内容には信憑性が疑問視されているが、それでも広い場所もお金もかけず小さな箱の図書館は作ることが出来るようになった。
 こんな形で実現できるとは、想像しなかったけれど…


後 記
 
 平成十年は、景気の低迷によるリストラ、夏祭りのカレーライスにヒ素混入という想像もつかなかった無差別殺人事件、十月という時ならぬ時期の台風による津山市・吉井町の大水害など、「平成」という名前にふさわしくない一年になったように思います。
 そんな中で、長野オリンピックでのジャンプ陣の活躍は、日本中を興奮の渦に巻き込みました。もしかしたらまた駄目かもしれないというプレッシャーに打ち勝って、勝利をつかんだことは、多くの人達に夢を与えたと思います。また岡山大学病院での、生体肺移植の成功も、嬉しいニュースでした。
「夢」を見たり、語り合うことを忘れないようにしたな、と思います。

発 行  1999年4月
発行者  赤磐郡山陽町岩田63-1
 さくら薬局
 TEL: 08695-5-5510