さくらだより第24集

誰が選んでくれた道でもない
自分で選んだ道ですもの
間違いと知ったら
自分で間違いでないようにしなくちゃ

 文学座「女の一生」の舞台で、故・杉村春子氏が静寂の中、発する圧巻のセリフである。
 
 終戦後七十年を経て、多くの憲法学者が違憲との見解を示しているにも関わらず、安全保障関連法案が強行採決された猛暑の夏。
 国会内に「やめて!」という女性議員の甲高い声が響いていた。
 震災復興が遅々として進まず、経済の閉塞感から抜け出せないことから当時の与党である民主党でない政権を選んだつもりではあったが、集団的自衛権を認めて投票をしたわけではなかったのに、狐に化かされたような気分になる。
 戦争法案ではありません、国家・国民を守るための法律です・・・という説明を素直に受け入れられない。
 猛暑の気温が、不安を増大する。
 九月、鬼怒川決壊。自衛隊の救出活動の見事さに感嘆する。彼らに戦地に行ってくれと、一体誰が命令できるのだろうか?


 あれほど暑かった夏も、旧盆を過ぎると一気に涼しくなった。それとともに、安保関連法案可決への不安な気持ちが、薄れていく。
 
 私の手元に、あやめの絵柄の付け下げがある。亡くなった祖母から受け継いだものだ。戦時下、食物を兄弟に分けた為に嫁入り前に餓死したひとの形見の着物。
 終戦を迎えて、隣近所の年頃の娘さんがお見合い写真を取る際に、(当時は絹の着物が手に入らなかったので、)貸し出されたそうで、祖母は『あやめの着物』と名付けていた。
 端午の節句の頃、菖蒲が咲き出すと、裏地の紅絹の色と共に思い出す祖母の話である。


石上布都魂神社
 スサノウノミコトが、出雲の国斐伊川上流で大蛇を倒して、その尾から取り出された草薙の剣が、この地に納められていたという記述が日本書紀にあるという。昨年秋の例大祭の前々日に足を運んだ。
 夕暮れ時であったにもかかわらず、代々この神社を守ってこられた宮司様とその奥様が由緒を説明してくださった。現在は火事で消失しているが、後楽園を造営した池田綱政公の時代には、立派な社殿と能http://www.city.akaiwa.lg.jp/iryou/iryou/2526.html舞台があったらしい。
 本宮までの道は険しいと聞いていたが、宮司さんの「九十歳の方でも登られた方はありますよ。」との話で、拝殿から本宮への道を登ってみることにした。写真は本宮前の鳥居。本宮は禁足地と説明を受けたので、ここから上は踏み入らなかった。
 確かに険しい。距離にするとわずか五百メートルだそうであるが、日常的にお参りできるという山道ではない。道中には有志の方によって小さな立て札が立てられていて、それを休憩しながら読むことで日常の喧騒を反省することが出来る。
 布都(ふつ)という音は、“断ち切る”ということを意味していると、説明を受けた。

 この急な山の頂まで、どのようにして社殿建設のための道具を運んだのか・・・、さらには何故この地に草薙の剣を奉納したのか、過去の時代の人々の気持ちに寄り添う。ここは地名が表すように、硬い岩盤の上なのですよと、説明を受けた。秋の棚田が美しかった。

 この山中で、広島県熊野町から足を運んだという若き女性に出会った。彼女は、時々訪れると話していた。

あの日
“STAP細胞”の名付け親の方が、「あの日」という著書を発刊された。『もし神様があの日に戻してあげるよといわれたら・・・』ということで題名がつけられた本らしい。 歴史の時間軸を逆行させることは出来ないが、将来を期待された若き研究者が、自身の過去のどこかの時点で別の選択をしていたら今の苦悩はなかったかもしれない、と思いたくなる気持ちは判る。
 
 年明け早々の軽井沢でのスキーバス事故では、将来に夢や希望を抱いていた若人たちが一瞬にしてあの世に旅立った。あのバスに乗らなかったら、今頃は何をしているのだろうか・・・・と、怪我をされた人、ご遺族の方はきっと考えているのだと思う。さらには、スキーに誘わなければ良かったと、悔やんで今も苦悩している人もいるかもしれない。
 
 振り返って、あの時点が運命の分水嶺だったと思えることがある。そんなことのいくつかを身の回りで拾い上げてみた。

平成二十八年二月五日桜島が久しぶりに噴火。その三週間前の火口。
当日は雨模様。地下で活動が高まっていたとは思いもよらずに、暢気に撮影。
 
C型肝炎治療薬発売
 平成二十六年秋、インターフェロンを用いないC型肝炎ウイルス治療剤が発売された。インターフェロンが抗がん剤としてではなく、肝炎ウイルスに対する治療剤として使われるようになったのが、平成四年。発売当初は期待されたが、実際に治療に用いられるようになると、頭痛・倦怠感・発熱などの副作用がかなりの頻度で発現し、効果は期待したほどではなかった。しかし、他に有効な治療方法がなかったので、インターフェロンの効果を増強させるような薬を併用して治療できないか?という工夫を重ねて二十二年が過ぎた時、インターフェロンを用いない肝炎治療薬が発売されることになった。この時点では、この研究に携わっていなかった医療関係者の多くは、新薬に大きな期待を抱いてはなかったように思う。
 
 当方でも一昨年末からこの薬を調剤することになった。最初は効果よりも副作用を心配した。
 ビクビクしながらの六ヶ月間が過ぎて、副作用の発現はほとんどなく、C型肝炎ウイルスは消えた。身体が軽くなったと言われていた。
 その劇的な効果に驚いた。
 その後次々とC型肝炎ウイルス治療薬が発売をされて、各々の薬を試された方が、一様に肝炎ウイルスが消えて身体が軽くなったといわれる。
 久しぶりに有意義な薬が世に出たと思った。
 ただ問題は、薬代である。国の補助があるので、患者負担はあまり高額にならないが、今後どれほどの人々に使われるのかと考えると、国民医療費に与える影響を考えずにはおられない。

砒素入りミルク事件から六十年
 猛暑の日の夕方、運転中の車のラジオから砒素入りミルク事件から六十年を迎えたというニュースが流れた。ミルクに砒素が混入した原因は、原料である乳製品の安定剤として用いられた薬剤が工業用のものであり純度が低く、異物である砒素を混入していたことであったと後日判明。
 ミルクメーカーは、購入した安定剤にまさか砒素が不純物として混入しているとは夢にも思わず、一方で安定剤を納入した業者は、食用に用いられるとは思っていなかったという行き違い。このために生まれたばかりの乳児が被害に遭うという当時はとても悲惨な事件であった。しかし六十年という時間で、いつしか記憶から消えていた。

パリ同時多発テロ
 昨年十一月十三日(金)午後九時過ぎ、パリ市内の競技場や劇場で同時にテロ事件が発生した。
 この日から二週間が過ぎた十一月末突然、前立腺治療薬「アボルブカプセル」が出荷停止・今後入荷の予定はないという連絡が来た。理由を尋ねると、この薬はフランスの工場で製造されている(受託製造)が、製品の中に異物が混入しており、フランス当局が調査に介入したとのこと。
 通常異物が混入していた場合(別の薬剤や規格違いの薬剤が混入している例は過去にもあった)、当該ロット品のみ回収になるのに、完全に出荷停止とは、ずいぶん大袈裟なことだと思った。
 それから数日して、この出荷停止がパリ同時多発テロと関連があるのではないか?という噂が流れるようになった。真偽のほどはわからない。
 しかし、三ヶ月が経過した今も、アボルブカプセルは出荷されていないし、その理由も公表されていない。こんなことは初めて経験することだけに、とても不気味である。

岡山プライド
 岡山県立記録資料館(岡山市北区南方 旧国立岡山病院跡地)で開館十周年記念の企画展として、全国に誇る岡山の人々の業績展示が行われていた。
 その最終日、十一月二十二日(日)に拝観した。医療の分野では、江戸後期(嘉永三年)岡山県内にどのように種痘を広めたかについての資料に興味を引かれた。金川在住の難波抱節氏は、種痘を広めるビラを作って、牛痘の安全性を説いていた。現代とは違って情報を得る手段の無い頃、健康な人が種痘を受けることにさぞや抵抗があったことだろうと想像できる。
 そして、昭和三十三年に国立岡山病院内に全国初の「母乳銀行」を作られた故・山之内逸郎先生。母乳を搾乳して冷凍保存するために、特殊なバックを考案された。生前、「赤ちゃんにとって母乳に勝るものはない」と口癖のようにおっしゃられていたなあと、懐かしく見入っていた。すると、隣で展示を見ていた江戸東京博物館に勤務の男性が、「どんな方だったのですか?」と聞いてこられた。
 予期しないことだったので、山之内先生のことを話そうとすると、タイムスリップしたかのように、扉の向こうから「やあ!」と片手を挙げてニコニコと近づいて来られる姿が見えるようであった。
 ご自身のお腹の中にレコーダーを仕込んで、お腹の中にいる赤ちゃんには外の会話がどのように聞こえるのか実験されたり、小児科全体の忘年会では、皆と同じものを口にされなかったり(もし食中毒が起きると、小児科医全員がダウンすることになるので)、愛育委員の方々を病院に迎えて自ら案内をされていたり、何より自らカートを押して院長回診をされていたと、思い出すままにお話ししたが、うまく伝えられたかどうか・・・。
 国立岡山病院長職を引かれた後、ゆっくりされる間もなくあの世に旅立たれた。あれから二十三年、今もしご存命ならば、子宮頸がんワクチンの少女への摂取をどのように考えられるのか?尋ねたいと思う。
 
 昨年ブラジルで、妊婦のジカウイルス感染による小頭症児の問題が提起される。蚊に刺されないように注意するほか手立てなし。
 
 ノーベル医学・生理学賞
 河川盲目症の治療薬を開発された大村博士の受賞が伝えられた。
 薬のことは知識を得ていなければならないのだが、正直“イベルメクチン(商品名ストロメクトール)”については初耳であった。
 同時にマラリア治療剤を開発された中国人科学者が受賞となった。
 今回、この薬の開発の経緯を知って驚いた。中国ではセイコウという草を古来よりマラリアの治療に用いられており、抗マラリア薬の開発の過程でこの植物から有効成分を抽出しようとした。ところがうまく行かず、屠博士は古代中国の書物を紐解いてセイコウの有効成分の抽出方法を得たというのである。中国、晋王朝時代に残された書物というのだから、西暦二百年頃~四百年頃のこと。この書物に書かれている文面と同じものが、日本の平城京跡から、木簡に書かれて見つかっているという。

覚せい剤
 申年は荒れるという言い伝えは本当なのかどうか、今年は年明けからビッグニュースが次々と報道される。その中で、元スーパースター清原選手の覚せい剤所持に関するニュースは、長く話題になっている。
 ある日のこと「覚せい剤と麻薬はどうちがうの?」という質問を受けた。どちらも依存性があること、高揚感を得るため(現実逃避)に使用されることから、両者の違いについて質問されたのだと思う。
 
 忘れていたことであるが、戦後覚せい剤は薬局で販売されていた。販売名は「ヒロポン」。
製造していたのは、大日本製薬。
睡眠時間を削って仕事をしなければならない人が購入していたという。戦争中に軍が所持をしていて、終戦後市場に広がったらしい。
 軍が所持をしていた理由は、戦地での恐怖感を紛らわすためであったのだろうと、想像できる。
 一九五一年、覚せい剤取締法により、所持・使用することが禁止された。従って、今は日常目にすることはない。
 一方、麻薬はケシの実から抽出されるアヘンから合成される物質で、医師の処方箋の元に、主としてガン末期の強い痛みに用いられる。麻薬取締法で厳重に規制をされてはいるが、日常業務の中でお目にかかる薬である。
 
 しかし私に質問をされた方は、前記のような答えを求められたのではないように思う。そして考え出した答えは、麻薬は、自然界に存在する物質を人間の知恵でうまく利用できた薬で、覚せい剤は、人間の浅はかな知恵で作り出された薬という毒であったという違い。これで納得してもらえるかな?
 
 
 以前、図書館で眺めた戦後まもなくの新聞の広告欄に、上記のような記事を見つけた。

ブロチン液が消える
 今年十一月で、咳止め薬の“ブロチン液”が製造中止となることになった。茶褐色のほんのり甘い液体。今までに数え切れないくらい調剤をした。原料はサクラの樹皮。日本で開発された薬。
 咳止めの効果についてはやや頼りないが、製造中止と知ると、淋しい。
 
機能性食品
 昨年四月から、特定の食品に表示できることになった。
 「薬でないから安心」という声をよく聞くが、医薬品は厚生労働省の認可がなければ販売できないが、こちらは製造業者が科学的根拠をもとに消費者庁に届け出をすることによって、表示することが出来る。
 さて、どう選択をするか?

後 記
 昨年は終戦から七十年目の節目の年であり、変革の分かれ道を迎えたような気持ちになりました。
 大騒ぎをして、マイナンバー制度も始まりました。  
 日々衝撃的な出来事に出会うと、過去の出来事を記憶の中から片付けて、これからに対応しようとしているような気がしています。
 今年四月には診療報酬改定が行われて、入院治療より在宅医療とへと一層シフトして、人生の過ごし方の選択を迫られるようになるようです。薬局業務も「かかりつけ薬剤師」という制度が新設されて変化をするようです。
 振り返って「あの時あんな選択をしなければ・・・」と後悔をしないように、先人たちの試行錯誤から学んでみたいと思っているうちに、分水嶺という言葉が浮かんだ申年の幕開けです。


発行日 二〇一六年四月
発行者 赤磐市岩田六十三ノ一
さくら薬局
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印刷 財団法人矯正協会