こんなところです①

赤磐市山陽地域(旧赤磐郡山陽町)のご紹介

ここ山陽地域には、とにかくたくさんの古墳や昔話があります。

 さくら薬局のすぐ北の道は、今からおよそ1,500年ほど前は吉備上道(きびのかみつみち)とよばれていたそうです。

 近くにある両宮山古墳は、そのころ大和朝廷にならぶほど強い勢力をもっていた吉備国の吉備上道臣田狭(きびのかみつみち おみたさ)という豪族の墓だと、いい伝えられています。

『日本の古代遺跡(23) 岡山』真壁忠彦/真壁葭子・著 の第三章「山陽町をめぐる」の文中に、次の記載があります。
 古代において、岡山県の東半部の中心的な地域といえば、まず赤磐市山陽地域(旧赤磐郡山陽町)の周辺をあげることになる。
 山陽地域の平地には南北に砂川という川が流れるが、東の吉井川、西の旭川と山陽地域の周辺をくらべれば規模も小さく、流域の平野も、現今の状況でみれば吉井川、旭川の下流域平野よりはるかに狭い。

 しかし、大型河川の河口近くがつねに洪水や海からの波浪などによる不安定な要素が多かったのにくらべると、古代においては、盆地状をなすこの地域は、はるかに安定した土地であった。

 岡山県東半部では最大の前方後円墳をはじめ、注目すべき遺跡が集中し、備前国分寺、国分尼寺がこの他にあることでも、山陽地域の周辺が古代にしめる位置を知ることができる。


両宮山古墳

両宮山古墳は山陽団地のすぐ南西に位置し、岡山県下では造山古墳(全長350m)、作山古墳(全長285m)に次ぐ第3位の大きさで、いまも水をたたえた周壕(しゅうごう)の大部分がのこる。

 両宮山古墳は全長約190m、後円部の高さ約20m、国指定史跡となっている。周壕の一部が田になっているとはいえ、岡山県下ではもっとも整った形でのこっている。

この古墳の南、道路をへだてて、二つの独立した小丘があり、ともに前方後円墳である。西が森山古墳(全長85m)で、前方後円形をよくとどめ、とくに周庭帯(しゅうていたい)をよくのこす。東は廻り山古墳(全長65m)で、畑となり変形しているが、両者とも埴輪がある。巨大な両宮山に近接しているので、あまり大きく感じないが、相当の規模のものである。

 両宮山古墳の後円部のすぐ北方にも、径20mばかりの円墳がある。

参考文献:「日本の古代遺跡(23) 岡山」
       真壁忠彦・真壁葭子著
       保育社刊  昭和60年9月30日発行

足王神社-通説の部-

 足王神社 は、今から六百数十年前まで山陽道として利用されていたという、馬屋から和田を通る道路と山陽団地7丁目が交わるところにある。

 近年益々御発行で大祭・月並 祭には露店が並び、県内や隣県はもちろん、大阪・愛知、遠くは埼玉・長野・鹿児島からのお参りもあって、4月29日の大祭には約3万人、9月29日の大祭には約1万人の参拝者で賑わい、毎月29日(2月は末日)の月並祭には400~500人、天気が良ければ平日でも50人内外の参拝者がある。
 4年間入院中の動けなかったリウマチ患者が、家族の代参でおかげを受けて歩けるようになり、2週間後には新見から足を病む7人の幼児が親に負われて参拝したという近頃の話もある。

 昔、梶浦勘助という人が、自宅に足名椎・手名椎の二神を祀って信仰していたところ、御利益が著しいので近隣の手足を病む人々 が続々お参りするようになった。
 このような尊い神様を私するのもったいないとと考えた勘助は、霊地に祀って一般に公開しようと思い、選んだのがこの地である。

 祭神は、大国主命・手名椎・足名椎三柱。カマやハサミをお供えするのは、病気の根を切るという意味である。



備前国分僧寺跡の所在地

 備前国分僧寺跡は、赤磐郡山陽町馬屋背後にある高倉山南緩斜面に位置し、周辺はほとんど水田となり、一部が宅地・畑・神社・公園となっている。

 備前国分僧寺の位置については、永山 卯三郎らによってこの馬屋地区に方2町の寺域が想定されて以来、不動のものとなっている。

 1974年(昭和49年)岡山県教育委員会によって、国指定史跡申請資料作成のための寺域確認伽監配置をつかむ目的でトレンチを主とする発掘調査が行われた。調査では、南門跡・中門跡・金堂跡・講堂跡・塔跡・僧房跡・築地跡などが検出され、多量の瓦類をはじめとする遺物が出土している。


参考文献: 岡山県教育委員会「備前国分寺跡緊急発掘調査概報」
(「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告(13)」1975年 伊藤 晃)
岡山県大百科事典 下巻