こんなところです③

郷土の歌人

岡野 直七郎

 明治29年2月16日、岡山県赤磐郡西山村大字西中(現在、山陽町西中)に生まれる。3人兄弟の末っ子で、兄とは10歳、姉とは6歳離れている。

 関西中学、第六高等学校をへて、東京大学法学部政治学科を卒業。
 大正15年6月、歌誌「蒼穹」を創刊。


梅すらも時のいたるに 花咲きぬいつまで われのかくてあるべき

東京信託株式会社に就職した彼であったが、この仕事は彼の性には合っていなかった。真面目に取り組めば尚更、世間一般の常識が彼を苦しめた。
 不条理がまかり通り、反発すれば逆に、彼の正義感を傷つけるだけだった。

 5年をへて、自分に正直になろうと、彼は退職を決意する。

 その後、渋谷の街の片隅に、食堂「あおぞら倶楽部」を開店する。上記は、このころの作品(30歳代前半)。


食堂「あおぞら倶楽部」の経営では食べてゆくことができず、再就職。日本勧業証券株式会社、不動産部に入社する。
 臨時雇員として就職した彼は、1年もたたぬうちに係長になり、やがて、課長に昇進する。
 以下、このころの作品(30歳代後半)。


若くして胸病む友を うごく世の犠牲(いけにえ)とのみ見るは いたまし

病む友に賞与の袋 わたしたり手を つきてわれに礼(あや)するあはれ

仕事は多忙になるも、歌誌「蒼穹」の発行は毎月かかさなかった。
 結核が不治の病で、若い命を脅かしていた時代が感じられる。


近づく戦争の足音と、打ち続く不況のなかで読んだ作品。
 「ぜいたくは敵」という言葉が、すでに流れていたのだろうか……


きまぐれに蛍買いたり いかばかりの小(ち)さき浪費は われにゆるせよ

参考文献:「望郷の歌人 岡野 直七郎」
       一噌 静子・著

岡野 直七郎さん(晩年の作品から)

 岡野 直七郎さんの、晩年の作品を紹介いたします。
 これは彼が、短歌の世界においても、また一方金融界においても、評価を得られたときの作品です。
 この作品を、山陽町在住の若き書家に表現してもらいました。

肩ならべ上野の山を ゆくときに 長生きしてと 言いし君はも

この書を書くにあたって、山陽町在住の若き書家は、以下のようにコメントされました。

「郷土山陽町に、このような立派な詩人がいたことを私達はもっと誇りに思い、この歌のように、力いっぱい生き通していけたらいいです」
 この歌に表現された“君”とは……?


岡野氏は晩婚である。養母が亡くなってから、妻を迎えている。
 新婚生活は、今までに全くなかった明るく楽しいものであった。 表面に出なかった彼の別の面が 妻によって引きだされたのかもしれない。

 直七郎の養父母は、岡野家を絶やさぬため自分を養子にした。だから、跡を継ぐものを残さねば申し訳ないと、彼は思っていた。しかし、若くはないからと多少あきらめてはいたのたのだった。
 実は、結婚早々に恵子夫人は子宝に恵まれたのだった。しかし「今更、この年にして恥ずかしい。」と中絶している。無論、夫である直七郎には全く知らされてなかった。実の姉が人工早産で死んでいるので、直七郎は勝手に仕末してしまった妻のやり方が許せなかった。この妻への不信感が、彼の神経を苛立たせることになってしまった。

子をうむはいとえる 妻の犬の子を 飼はぬとぞ 言ふ寂しきが妻

この書を書いてくれた青年は「文字の切れを鋭利にして、岡野直七郎氏の心の痛みを表現した」と話してくれました。これを表現されるのは、とても困難であったと、想像いたします。
 その彼からの、さらなるメッセージです。

「歌を書に託すとき、同じ姿、同じ字、形が並んだり続いたりすると、調和ある作品にはなりません。まったく違う形、姿、線をひとつの作品にかもしだした作品だと思います。そういうように自分で詩を選んで書きましたが、なかなか思うような作品とはいきませんでした。書は難しいものです」