東北大震災から一年
昨年四月一日朝、東北新幹線の車中に居た。
車窓の雪を頂いた日光連山は美しい。下を見ると、稲刈りがされたまま、耕されていない水田があちこちに見える。今年の稲作は断念したということなのか?土の色は日頃見慣れた赤磐市周辺の土の色より黒く見えた。
上野から仙台まで約一時間半は、アッという間であった。
私は福島県相馬市を訪れる予定であった。
降り立った仙台駅は、見渡せる範囲では大震災の爪痕は見受けられず、人々が往来し駅構内の土産物店も賑わっていた。
仙台市内も震災の影響はひどかったと聞いていたので、ほっと胸をなでおろして、常磐線の時刻を確かめた。
事前に調べたように途中の亘理駅までしか運行をしておらず、亘理~相馬間は、バスの代行運転であった。
仙台駅から亘理までの車中は、多くの人が乗り降りをして学生さんと思われる笑い声も響き、小さな子供さんを連れた家族連れも見かけた。しかし亘理駅からバ
スに乗り換えると、乗客は数人と少なく、窓から見える景色は、穏やかな田舎の風景である。そして道端には仮設住宅への道案内の標識がいくつも立っていた。
相馬市
『何故相馬市訪問を計画したか?』というと、地元の有志が福島県の子供達をサマーキャンプに呼ぼうということを発案したからである。
福島県といっても広く、放射能被害で外遊びの制限されているところは各所に及んでいると思ったが、たまたま相馬市のボランティア団体と縁があるとのことで、まずはとっかかりに相馬市内の子供達を呼ぼうということになった。
現地ニーズの調査の為の相馬行となったのである。
バスの終点である常磐線相馬駅で下車したのは、私を含めて五人。駅前は、とても静かであった。
まずは相馬野馬追で有名な中村神社を参拝する。境内には倒れたままの石碑があり、地震の爪痕を見る思い。
続いて市内中心部の小・中学校を訪問する。体育館が地震で壊れてその場所が更地になっている学校があった。すでに一年が過ぎているというのに、阪神大震災の時と比較をして、その復旧の遅さに驚く。
しかし何よりも驚いたのは、街中に全く子供の姿を見かけなかったことである。こちらの四月と比較して寒いとはいえ、日中外を歩くのに不自由というほどの気温ではない。
学校の校庭にも見かけず、あまりの不気味さに子供の姿を求めてショッピングセンターを覗いて、この街にも子供がいることを確認した次第。また相馬市には隣 の南相馬市から放射能被害を避けるために仮設住宅に移住をしてきて人口が増えているという話を聞くが、それでも子供の姿を見かけないのである。その仮設住 宅への訪問をあえて行わずに、海岸近くの津波の爪痕を見て回る。海岸へ向かう道路は、車が通れるほどには整備されているが、ほどんど通行車に出くわさな い。人影もない。
百聞は一見に如かず
津波が襲った後は、きれいに片づけられていた。まだ復興の槌音は聞こえてきていなかったが、報道で知らされていたような『いまだに街中にがれきが残っている』ということは無かった。
海岸近くの一角に壊れた漁船が小山のように積み上げられていた。がれきの集積場は、企業誘致をするために整備をされていた場所だそうだ。少しだけ立ち寄っ
ただけであるが、膨大な量のがれきを前にして、災害の甚大さを実感する。その近くの火力発電所から立ち上る煙が、何とも言えない淋しさを誘う。
「怖かったでしょうね・・・・」という私の独り言に
(津波は)黒い壁のようであった、
(津波が)引いてゆく時の力が凄かった、と聞いていると、教えてくれた。
海に近い高台にある磯部小学校の校門前には、男女児童の石像。
説明を読むと、津波に飲み込まれた十二名の慰霊碑だと書いてある。金曜日午後三時頃と言えば、小学校低学年では自宅に帰りついている頃。津波に追っかけな
がら学校までの坂道を駆け上がることは、さぞかし大変だったろうと想像できる。この学校の周囲には他に高い場所がなかったそうだ。
同じ相馬市内でも、津波に襲われて何もかも奪われてしまった地域の人、
内陸のために津波の被害はほとんど受けなかった地域の人、津波の被害を受けなくても、福島第一原子力発電所の事故の影響を受けて、農作物が出荷できない人、沿岸の観光業を営むところでは、高台に建物があるので津波には巻き込まれなかったが、海岸線は復旧していないので観光業は未だに再開できないという人と様々。
しかし、生活の為の補助金は、津波で田畑を流された人・船を失った人などに支払われるので、住民間に感情の温度差が生じているという。
『市内のパチンコ屋は繁盛しているよ』と、つぶやくように教えてくれた。
さらに、『売れなくなった農作物を外食産業の人が安い値段で買いたたいている、というのもあるよ』とも教えてくれた。
ここにはとても記載できない、耳を疑いたくなる話も聞いた。
「報道ではがれき処理が進んでいないと聞いていたのに、何故こんなにきれいに片付いているかしら・・・」との質問に、
「同じ補助金をもらって仕事をするのならば、隣の(福島第一に近いので放射能汚染がよりひどい)南相馬市よりこっちの方がいいだろう?」と教えてくれた。
さらに・・・本来は震災被害で仕事を無くした人々の救済の意味合いをも持つがれき処理の補助金事業が、他県の業者によって行われているということも教えてもらった。
報道で見聞きしているのと、現実はこんなにも違うものなのか?
上野公園の桜祭り
後ろ髪をひかれる思いで飛び乗った帰りの新幹線の中で「岡山で外遊びを楽しんでもらおう!」と考えたことは、甘い自己満足にしか過ぎないのではないだろうか?と自問自答を繰り返していた。
原発事故さえ起きなければ、小さな子供も親や先生や友達と一緒に復興に頑張れるだろう。
もちろんそれはとてもとても大変なことだろうけれど、故郷を大切に思う気持ちも育まれるだろう。新たな人間関係も出来るだろう・・・・・と思う。とても旅行なんてしている気分にはなれないだろう。
「この春近くの阿武隈川で捕れたヤマメから四千ベクレルの放射能が検出されたって言ってたよ。
我が家は代々農家だけど、もう自分の代で終わりだよ。相馬は宮城に近いけど、農作物は福島県産。息子に継いでくれとは言えないよ。」タクシーの運転手さんが、話してくれた。
一方で、原発関連で収入を得ていた人が多いことは、想像できる。
暗くなった外の景色に目をやりながら、頭の中を色々な考えが駆け巡る。
千年に一度の災害に対して、岡山で出来ることは何もないのだろうか。
気が付くと、上野公園の桜祭りのぼんぼりの灯りが見えた。
五月には東京スカイツリー開業・先ほど目にした仙台駅前の賑わい。その間にある福島県相馬市、南相馬市・・・・・・。この格差は何なのか?
平成二十四年十二月現在、岡山県内に八八一名の母子避難者が登録をされているという。
金環日食
五月二十一日朝、児童・生徒の登校時間と重なるので、登校を早めて学校で観察をしたところもあったという。
日食グラスなるものも売り出された。
幸運にも当日は晴天で、弁当の準備をしていた私は、突然スーと暗くなって日食の始まりに気が付いた。
気が付くと先ほどまで聞こえていた庭の小鳥たちの鳴き声も止んでいる。
太陽エネルギーはやっぱり凄いと感じた、天体ショーであった。
温故知新
毎年十月十七日から一週間は「薬と健康の週間」ということで、我々薬剤師に啓発活動を実施するように促される。
ところが、日頃仕事で薬漬けになっているので、啓発活動をするようにと言われてもどうしたら良いのか毎年頭を抱える。
そこで例年地域の文化祭の会場やスポーツイベントの会場の一角をお借りして、血管脈波を測定したり薬草茶の試飲会をしたり、役所が作成したパネル(薬物乱用防止の啓発用パネル)を掲示してお茶を濁す。
この週間の目的「医薬品を正しく使用することの大切さ、そのために薬剤師が果たす役割を一人でも多くの人に知ってもらう」を掲げられても、あまりに当然なことなので反って悩む。
そこで昨年は、普段は私たち薬局薬剤師でさえあまり気に留めない、昔から使われていて今も使われている市販薬について調べてみることにした。そしてそれらの中の三種類を、赤磐市立中央公民館で行った「お薬教室」の講演会の席上で紹介をした。
仁丹・浅田飴水飴・陀羅尼助丸。
今では仁丹をポケットに忍ばせている人は見かけないが、かつてはダンディを気取る人のポケットには入っていたという。
そして森下仁丹のいわゆるジェネリック品というのは相当な種類販売されていたことも知った。それほどに明治時代から昭和初期においては知れ渡った商品だったようだ。
喉が痛い時にお箸の先に水飴をぐるぐると巻きとって舐めた記憶をお持ちの世代は、もう少なくなったかな。
浅田飴として今は良く知られているが、水飴もまだ商品として販売されていることを、今回知った
。この薬の由来は、幕末から大正時代にかけて将軍家の典医、宮内省侍医を務めて名医として名高い、浅田宗伯氏が考案した処方が基になっているそうだ。
陀羅尼助は、予想以上に馴染みが少なかった。
キハダ(黄柏)を主成分とする胃腸薬。使い方は正露丸に似ている。
最初は板状のものを削って服用したらしいが、今では丸剤がほとんど。
昨年暮れにはノロウイルスが大流行で、嘔吐・下痢に悩まされた人が多かったが、案外こんな薬が症状を緩和するのかもしれないと思った。
ある秋の一日、「しゃっくりが止まらなくて・・・」と言われる方が来局。
柿の蔕を乾かして、煎じて飲んだら良いことをご存知?」と答えるとびっくりされていた。
新しい情報ばかりではなく、過去の知恵からも学ばないといけないと思うこの頃。
イタチの訪問
夜中十一時半頃携帯電話が鳴る。
着信履歴を見ると、警備会社から。不審者が入室しているらしいので、同行してほしいとのこと。
すぐさま薬局に来てみると、その不審者というのは、どうも人間でない様子。
警備会社の人曰く、イタチかペレットのような小動物ではないか?とのこと。
しかし室内をくまなく見回しても、それらしき動物は見えず、侵入口も見つからず。
やむなく念のため燻煙剤のバルサンを焚いて、戸締りをして翌朝出勤してみると、室内が大混乱!。
掃出しを開けると、部屋の隅に隠れていたイタチが一目散に外へ。
どうも昼間の掃除の際に掃出しを開けていたところ、勝手に侵入をして隅に隠れていたらしい。
夜中に出てきたら逃げ場が無くなって大慌てをしたみたい。
何にも食べるものが無くてごめんね、イタチ君。
でもこっちもびっくりしたよ!今度来るときには、ノックをしてね。
猛暑の影響なのか、猪の被害に悩まされた昨年の秋。
医薬品のネット販売
今年一月、医薬品のネット販売大手二社が国を相手取って起こした裁判に、最高裁の判決が下りた。
厚生省令で、医薬品のネット販売を規制することで国民の権利を制限することはできないとの判決であった。
これを受けて第一類・第二類に分類される医薬品も、第三類医薬品と同様インターネット上で入手をすることができるようになった。離島やへき地に居住されて
いる人、身体が不自由で出かけるのに困難な人、流通に乗っていない医薬品(たとえば、島根県津和野 伊藤博石堂の一等丸)を入手したいと思う人には便利に
なった。
しかし一方で、困ったことも恐らく生じるのである。
かつて若者の間で、ブロン液というのがブームになったことがある。
本来は咳止めの治療剤で、一回の用量は添付の小さなキャップ一杯以下なのであるが、これを一瓶全部に服用すると、昂揚感に浸れるということでもてはやされた。
当時はインターネット販売などが無かった頃だったので、店頭で一度に何本も販売しないように、短期間に何度も買いに来られる人には注意をして、私たち提供者側は乱用防止に対処しようと努力した。
在庫を店頭に置かないようにしているところもあった。
インターネットで便利に購入できるようになると、このようなケースに対する歯止めが難しくなることは考えられる。
そんなことは、個人の良識の問題であって、だからネット販売が危険だという理由にはならないという反論は的を得ているが、酩酊運転が何の罪もない他人の人生を狂わせるのと同じように、薬の乱用によって同じような事件が起こらないとは言えないのである。
昨年の晩秋『薬害根絶フォーラム』に出席をした。その席上で聞いたサリドマイドを服用されることになった経緯の話が忘れられないので、ここに紹介をしようと思う。
話をして下さった人のお母様は、大きな旅館に嫁いで慣れない家業に疲労困憊し、そんな時その旅館の仲居さんがお母様にこの薬を紹介したそうだ。
それから五十年、お母様やご本人が背負った苦難を思うと、正確な情報を得ることの大切さを痛感する。
アルジェリアでのテロ
後に振り返って今年がどのような年であったのかを思い出す時、どうしてもアルジェリアで起こった悲惨なテロ事件を忘れたくないと思っている。
殺された人々は、アルジェリアの人々の幸福に繋がると信じて、過酷な環境で頑張っておられたと思う。
建設中のガスプラントが、先進国繁栄の為のエネルギー施設建設であったとしても、まさか銃口を向けられるほど憎まれていたとは・・・
どれほど無念な気持ちであの世に旅立たれたのだろうか?
エネルギー資源の争奪戦。
原子力発電所の悲惨な事故は、我々にエネルギー資源の利用の仕方に警鐘を鳴らしたのではなかったのだろうか?
後 記
昨年の夏は猛暑であった。
原子力発電所がすべて稼働をしていないので、打ち水などによる節電を要請されたが、ついには熱中症対策にクーラーの利用も呼びかけられた。
そして、今年の冬はとても寒い。五メートルを超す積雪に悩まされている酢ケ湯に比べれば、こちらの冬が厳しいなどとは申し訳ないが、それでも暖房費としての電気代は例年より増えている。
さらに大気汚染やインフルエンザウイルスなどの対策に加湿器や空気清浄器を使うものだから、電気の消費量は減ることはない。
つい二十年前はパソコンがなくても薬局の仕事は十分に出来た。しかし、今はパソコンが無ければ仕事はほとんど出来ない。
こんなことがあたりまえなことだと考えているわけではないが、と言って別の対処が思いつかない。
ある日突然電気が通じなくなったら・・・・と考えると恐ろしい。
発行日 2013年4月
発行者 赤磐郡山陽町岩田63-1
さくら薬局
印刷 財団法人矯正協会